酒は飲んでも・・・



 きっかけは些細な事だった。
 金曜日の訓練終了後、せっかくの週末だから、ヒヨコ隊のみんなでおいしいものを食べに行こう!と言う話に なった。除隊になってしまったとは言え、星野は大事な仲間と言う認識は四人四様にあり、乗船していない事も確認していたため、 大羽が四人を代表して電話で呼び出した。
 そんな姿を通りがかりの嶋本に見つかった。
「・・・みんな元気なんやなぁ」
 にこやかな微笑の下にとてつもない黒さを感じ四人で戦々恐々とする。
「そやな、せっかくやから、俺らも参加するわ」
 ののしられるか、ムチャに近い課題を課せられるかと思いきや、意外なことを言って、さっさと車を
出してしまう。勝手に参加決定されている事よりも機嫌のよさにいつも以上の恐怖をヒヨコたちは感じながら、 いつも通り、羽田方面に向けて走り始めた。


 それから数時間後。
 官舎で星野と合流して、五人で店へと行くと、そこには嶋本だけではなく、真田、高峰、そして、何故か五十嵐までもがいた。
 驚いて立ち尽くすヒヨコ達の中でメグルだけが眼を輝かす。
「俺のために来てくれたとですか?!」
 五十嵐以外が目に入らなくなったメグルが五十嵐の横をちゃっかりと陣取る。
「いつまで機長や隊長を待たす気や!はよ、座れ!何ボーっと突っ立ってんねん!」
 嶋本の一喝にボケッとした四人が我に帰る。
「おなかすいてるでしょ?来てから頼むと時間がかかるから、とりあえず適当に注文したから。もし足りないようだったら 追加注文するといいよ」
 それぞれにお手拭を差し出しながら、高峰が星野や佐藤にメニューも渡す。
「神林君。ここに座ったら?」
 大羽と星野、佐藤がそれぞれ座り、空いている席も限られ、どこに座ろうか考えていた兵悟に五十嵐から声がかかる。真田の横が空いている事だし、そこにしようかと思っていた兵悟に五十嵐がさしたのは、五十嵐とメグルの間の事だった。
「え・・・」
 メグルと五十嵐と真田を見渡せば、明らかにメグルがジトーッと兵悟を見ている。
 五十嵐の横、真田の目の前と言うおいしいポジションを譲りたくないと目で訴えている事は兵悟も見て取れた。
「俺こっちで・・・」
「いいからこっちに座りなさい」
「神林!何もたついてんや!五十嵐機長の直々のお言葉やぞ!さっさと座れ!!石井もどけっ!」
 有無を言わさぬ、五十嵐の声に何故か嶋本が怒鳴る。
「俺の方が先にここの席とったばい!なんで、兵悟君に譲らんといけなかと?!」
「嶋本教官も五十嵐機長も、空いている席、あるんですし・・・」
 メグルと争う必要は何もないとわかっている兵悟は困ってしまう。
「嶋本・・・」
 それまで黙っていた真田に呼ばれ、嶋本がビクリとする。
 その様子に五十嵐と真田の間に板ばさみ状態になってしまった嶋本の心情を察し、兵悟はなおさらに困り果ててしまう。
「石井君。私は少し、神林君と話をしたいから席を譲って」
「恵子タンからおねだりされた!」
 散々、譲らないと主張していたのに、メグルはあっけなく陥落する。
 少しだけ名残惜しそうに席を空けると、五十嵐に向けて、『褒めて、褒めて』と言わんばかりの目を向ける。そんなメグルに 五十嵐は一切、関与しない。
「お酒は大丈夫よね?」
「はい。一応・・・」
 年齢的には問題はない。ただ、少し弱いということがあり、兵悟ははっきりと首肯できずにいた。そんな兵悟を 気にすることなく嶋本からビールを受け取った五十嵐は空いているグラスに並々と注いだ。



「知っているかしら?」
 酒が進んで、なにやら嬉しそうに五十嵐が微笑みながら、主語のない言葉で兵悟に問いかけた。
 基地や訓練の際には絶対に見る事のない美女の微笑みに目の前の兵悟は質問の肯定も否定もできずにジッと 見入ってしまう。その微笑みにメグルが目敏く反応して、『恵子タンの微笑みは慈母のようばい〜〜』と一人で 勝手に盛り上がっている。
 メグルをまるで相手にすることなく、五十嵐は兵悟の頬へ・・・と言うより、耳元に自然なピンク色の唇を 寄せた。別に他意はないのだろうけど、女性に、特に美人に接近される事に慣れていない兵悟は酒による動悸に
相まって、さらに心臓がバクバクさせた。
「な・・・、何を・・・ですか?」
 しどろもどろする兵悟の耳に五十嵐の吐息がかかり、二言三言を囁く。
 耳元から顔を離した五十嵐は大きな目をさらに大きく見開いた兵悟ににっこりと笑いかけると そのままガバッと兵悟を抱きしめた。

「いっ、五十嵐機長?!」

 ヒヨコたちがタガをはずさないか監視していた嶋本が驚嘆の篭った声を上げる。
「兵悟君なんばしよっと?!恵子タンから離れるばい!!」
 どう見ても五十嵐が兵悟を抱きしめているのに、メグルには見えていないようだった。
 周りにいた星野も大羽も佐藤も唖然としている。
 高峰はいつもと変わらない温和な笑みを浮かべて、動揺もしていないようだ。もしかしたら、この中で一番の大物は 高峰かもしれないと、頭の中がパニック過ぎてどうでもいいことが兵悟の頭をよぎる。
 背中に回された上に少し力が込められ、五十嵐と兵悟の距離がさらに狭まる。
 首筋に当たる柔らかな頬の感触と髪から漂う香りが鼻腔をくすぐり、兵悟はドギマギしてしまう。どうしたらいいか わからない両腕が宙を彷徨い、思考回路も真っ白になった。

「・・・五十嵐」

 五十嵐が兵悟をホールドした事により、酔っ払い集団の場が盛り上がる中、地の底から響くような低く、それでも通る声が 五十嵐の名を呼んだ。
 思考回路がストップしていた兵悟もその声によって、なんとか意識を浮上させた。

「なによ?」

 兵悟の首に両腕を回したまま、声の主である真田を振り返った五十嵐は不敵な笑みを唇の端に浮かべる。顎を軽く上げ、 見下ろすような視線を向ける姿にメグルが頬を赤く染め、打ち震えているが、やはり気にも留められていない。
「人の名前を呼んでおいて、だんまりはないんじゃないの?」
 やけに挑戦的な五十嵐に当事者ではない嶋本が戦々恐々とその様子を見守っている。
「・・・神林が困っているじゃないか」
「むさい男ばかりの職場でいつも癒されないんだから、たまにはいいでしょ?」
 明らかに不機嫌な様子の真田をものともせず、五十嵐は真っ向から見やる。
「私もたまには若くて可愛い子を相手したいのよ。何か文句ある?」
 それは本心なんか?!と嶋本が心の中で突っ込むが、怖くて口に出す事はできない。
 むしろ、こんな二大怪獣バトルのような状況から早くおさらばしたい!と言う事が嶋本の頭の中を埋め尽くす。そんな嶋本の願いなど 無視して緊迫しているような、それでいて宴会モードが抜け切れていないムードはまだまだ続くようだった。
場の雰囲気など気にすることなく、五十嵐は兵悟の首に回わしていた手をスルスルと移動させ、少し癖のある黒髪を愛でるように撫でる。
女性に抱きしめられる経験など物心ついてからは一切ない兵悟はどうしたらいいのかわからなく、されるがまま、じっと動けないでいた。
「ハイハイハーイ!!俺も若い子ですばい!兵悟君ばっかずるかとです!」
 手を上げ、必死に自己主張するものの、メグルの言葉はまるっきりないものとして使われ続ける。

「神林・・・」

 動けない状況に陥っている兵悟を真田が厳しい声音で呼ぶ。
 静かでありながら、重みと冷たさを伴った声は訓練で怒らせてしまった時を連想させ、条件反射で兵悟の体がビクッと 反応する。目線だけ真田に向ければ、無表情ながら、鬼気迫るオーラを発する真田が睨みつけるように兵悟を見ている。

「・・・ね?」

 真田から視線をはずした兵悟を見た五十嵐が主語も述語もなく、兵悟に問うた。
 五十嵐の強靭さは相当なものらしく、人を射殺さんばかりの厳しい真田の視線をものともせずに、兵悟をその視線から守るように 胸元にかき抱く。

「・・・・・・よくわかりません」

 道に迷った犬のように、本当に困った目をして、それでもまっすぐに五十嵐を見つめ、兵悟は消え入るような声で 呟いた。その声は周りの喧騒にかき消され、五十嵐にしか聞こえないくらいに小さいものだった。

「そう・・・」

 フッと息をつくように静かで強く綺麗な眼差しに微笑が浮かんだ瞬間、兵悟の目の前が暗くなり、呼吸がうまくできなくなった。

「んっ?!」

 突然の息苦しさに不恰好にも手足をばたつかせてみる。
「おいっ!五十嵐!!」
 ガタンッと言う音ともに真田の声が兵悟の耳に届く。
「うらやましか〜!!兵悟君!!」
「ゲッ・・・」
 メグルの文句とともに、驚きのあまりにとっさに出てしまったのだろう嶋本のなんともいえない ・・・俗に言う蛙のつぶれたような・・・声が続けて聞こえる。
「俺も恵子タンにギュッとされたいばい〜!ついでに兵悟君もギュッとしたいばい〜!」
 メグルの言葉でようやく自分の視界をさえぎっているものが五十嵐の体であり、顔を覆っているの柔らかな感触が何で あるかに気づき、兵悟は焦って抜け出そうと手足をなおさらにバタバタさせる。それでも抜け出せず、メグルの言葉に 不穏当な発言が含まれていることに気づく事はなかった。
「あ〜ぁ、メグルのヤツ完全に酔ってるなぁ〜。面白くなってきたね〜」
 口癖のようにいっている言葉に付け加えて出てきた言葉に星野が苦笑している。
「そんなこと言っている場合じゃないじゃろが・・・、って、お前も酔っとるやろ?!」
 肩にもたれかかって、騒ぎをニコニコと見ている星野の様子に大羽は頭を抱える。
「い・・・、五十嵐・・機長・・・。く、苦しいです!」
 胸に押し付けられたまま、息も絶え絶えに兵悟が主張するものの、五十嵐の腕の力は弱まりそうにない。
「2分半くらいは息止めできるでしょ?」
 それとこれとは話は別だと主張したくても、さらに腕に力を込められ、柔らかなソレに顔が埋もれ、 兵悟は抗議を続けられない。
 キューキューとして、手足をばたつかせる力もなくなっていく。
「石井君も神林君をギュッとしたいんだっけ?」
「ハイ!貴女にギュッとされるのも夢やけど、兵悟君ばギュッとするのもしてみたいとです」
「好きな子ほどいじめちゃうタイプなのね。少しだけ貸してあげる」
 本人の意思に関係なく、五十嵐と石井の間で勝手に話は進む。まるでお気に入りのぬいぐるみを貸し借りするような会話に 嶋本も突っ込むに突っ込めず、呆然と見ているだけしかできなかった。そんな視界の端でゆらっと動く影があった。
「ほら〜、兵悟君、今度はこっちに来るとよ〜」
 ようやく五十嵐の胸から開放され、思う存分、息を吸い込む兵悟にメグルが両腕を広げて『おいでおいで』と待ち構える。
「なっ・・・、なんで俺がメグル君にギュッとしてもらわないといけないんだよ〜!」
「何でもいいばい!おとなしくギュッとされると!!」
 兵悟からこないとわかって、メグルは両腕を広げたまま、兵悟に楽しそうに笑いながら、にじり寄る。兵悟も何とか 逃げようとするが、隣には五十嵐がいる。
「観念するばい!」
 まるで一昔前の時代劇の悪役みたいなセリフを発したメグルが兵悟を捉えようとした瞬間・・・。

 バガンッ!!

 とてつもない音とともに、メグルが椅子から落ちた。
 頬を押さえたメグルも、グラスを片手に星野を介抱している大羽も、大羽の肩で夢を見始めている星野も、チビチビと一人酒飲む佐藤も、
見たくはないのにすべてを見ていた嶋本も、嶋本の愚痴を聞いていた高峰もみんな何が起こったのかわからず、しばらく逡巡した。
 メグル君から逃げられない!と思って、ギュッと目を閉じていた兵悟はその場に響いた、乾いた音に恐る恐る目を 開き、呆然とするみんなを見回した。

「あ・・・れ?」

 さっきまで座っていたはずの自分が立っていることに気づく。
 兵悟は自分を見上げる五十嵐とメグルを見てから、ふと違和感を覚え、真横を見れば、無表情な真田が兵悟を見下ろしていた。

「・・・真田さ・・・ん?」

 無表情の真田が何を思っているのかわからない。
自分を助けてくれただろうことはわかるのだが、なぜ、小脇に抱えられるように立っているのかを理解するまでには至らず、 ただ意味もなく、真田の名を呼んでいた。
 嶋本は先ほど自分の視界の隅でゆらっと動いた影が真田であることを、ここにきて認識した。そして、その真田がメグルに 抱きつかれそうになった兵悟に手を差し出し、奪うように小脇に抱えた動きを余すところなく見てしまった。
五十嵐とメグルの
間にいた兵悟を抱きさらった事により、勢いあまったメグルが兵悟ではなく、五十嵐に抱きつくようなかっこうになった事。メグルに 抱きつかれそうになり、とっさの防衛本能で手加減なく、叩き落した五十嵐。
 そのすべての結果がここにあるのだと状況確認し終わった嶋本は小さきため息をつく。
 とっさに状況確認をしてしまう自分に『職業病や・・・』と呟くと、隣に座っていた高峰がポンポンと慰めるように
肩を叩いてくれた事が嶋本にとって唯一の救いのような気がした。
「悪いが、俺は用事があるから先に帰らせてもらうぞ。・・・嶋本!」
 止まった空間にかまうことなく、真田がはっきり宣言し、嶋本を訓練のとき同様に呼ぶ。

「ハイッ!」

 もはや関せずにいようと思っていた嶋本だったが、名前を呼ばれれば背筋を伸ばし、ふたつ返事をしてしまう。すべては 訓練の賜物といえる悲しい習性だった。
「これで払えるだけ払っといてくれ。残りがあるようなら、立て替えておいてくれ」
 兵悟を小脇に抱えたまま、嶋本に放り投げたのは真田の財布だった。
「財布だけじゃなく、神林君も置いてってね」
 みんなが固まっている間も真田から視線をそらすことなく見ていた五十嵐が釘をさすように言う。
「神林君が困っているわよ?」
 真田が黙ったままいると、五十嵐はさっき言われた言葉をそのまま返す。
「財布以外は置いていく気はない」
 はっきりと言い切った真田は意見無用と言わんばかりに兵悟をしっかり肩に抱えたまま、踵を返した。これ以上、何かあるか?と 言わんばかりの何者も寄せ付けない恐ろしい雰囲気を背負う真田に何かを言える勇気を持った無謀者はその場では五十嵐しかおらず、 残されたヒヨコ隊も嶋本も高峰も黙ったまま、真田(と抱えられた兵悟)の背中を見送る。

「あ、そうだ」

 真田の金だと言う事をいい事に、店で一番高いワインボトルを注文した五十嵐が恐ろしい雰囲気をものともせず、声をかける。
「ヒヨコ隊、週明けもリペ降下訓練あることをお忘れなく」
 振り返らない事など百も承知の真田の背中に兵悟のための忠告を投げつけると、床に座り込んで、叩かれた頬を愛おしそうに 撫でているメグルの襟首をつかみ、椅子の上に引き上げた。
 一応は足を止め、忠告を受け取ったらしい真田に微笑み、混乱のせいか抵抗を見せない兵悟に意味深な視線を送ると、 五十嵐は届けられたボトルを開け、まだシラフな嶋本と高峰を潰しにかかった。